2007年8月17日金曜日

奈良旅外道編 君はマンダラーズを知っているか?編


奈良旅で仏像ばっかり見ていたくせに、オレが全面的にバックアップしている、ブツゾー・マンダラーズを、すっかり忘れていましたですよ。

マンダラーズの面々、奈良出身が多いんですよ。
ぜひ、応援お願いいたします☆

2007年8月16日木曜日

奈良旅番外編 阿修羅像と対面する編


さて、奈良旅日記全行程は昨日の日記で6を数え、無事に大円団を迎えたのですが、番外編というか、最後にもひとつだけ(笑)

じつは、火曜と水曜に奈良旅を敢行したあとのその週の日曜、も一度、奈良を訪れたのでした…。
仕事だけどね。でも、寧楊さんやずんずんさんと合流して、そのときも燈花会に行ったり、ぱなぬふぁさんに教えてもらった、ならまちのオン・ザ・ロード・酒場にも再び行ったりもしたのですが、どーせなら、興福寺の阿修羅像を見ておこう!と。

こないだの奈良旅のとき、相方さんがね、オレが奈良に到着するまでのあいだに興福寺の阿修羅像にご対面してまして、それがまたそそる日記だったのですよ。

相方さんの阿修羅日記もどうぞ。


きっと、むかしに見ているような気もするのだけれども、ほとんど記憶にないし、一度は見ておきたい仏像だったので、これを機会に、ってことで。

しっかし、阿修羅像が収められている国宝感に入ってみると、ビックリしますよ。
さすがです。尋常じゃない仏像が、ゴロゴロしてます。
焼き肉と寿司と鍋を同時に出されたくらいの、むちゃくちゃな満腹感がありますわ。
持っとるなあ、と(笑)

阿修羅像は、もちろん、写真では何度も見ているし、頭にも焼き付いている像ではありますが、こうして現物と相対すると、見れば見るほど不思議な像です。

よく言われるように、お顔は、憂いに満ちた、泣きそうなのをこらえているかのような…、自我が芽生えはじめて、正義感を持つようになり、社会の現実と理想のギャップに苦しんでいるかのような…、あ、ロックンロールだわ!
ふと思いましたが、これ、ロックンロールの具現化ですね。
淋しんぼうのくせに、世界に対してあっかんべーをして、でも、誰よりも世界を愛しているし、世界に愛されたいと思っている人…、そういう、ロックンロールの持つ憂いが、ここからは見てとれます。

阿修羅像って、普通は、荒々しい怪物のような神です。
京都の北野天満宮にある北野天満宮縁起に描かれている阿修羅が有名なのですが、それを見ても、やはり荒ぶる神です。
天にかざした上段の腕は月と太陽を持ち、中段の手は弓と矢を持ち、下段の手は胸のまえで合掌している。
夜と昼を支配し、修羅に君臨する神…、そういう神さまです。

のちに仏教に帰依し、八部衆のひとりとなるのですが、そういうことを考えると、三面六臂のこの像の、6本の腕は、6本の腕があるというよりも、時間の経過を表現しているようにも思えます。

その阿修羅が、ここではなぜ少年として造形されているのか。
この像は、光明皇后が亡き母を弔って建てた西金堂に安置されていたといいますが、その直前、光明皇后は、ひとり息子を1歳で亡くしています。
西金堂が建立されたとき、亡くなった息子が生きていれば8歳です。
ということは…、この阿修羅像は、亡き息子を思ったものか、と、いろいろと想像は膨らみます。

そういうことを妄想したくなるほど、この像は、とても人間的なお顔をしています。
現実の人間を重ね合わせることが出来る造形なんですね。

さらにいえば、この像は、出来た当初、髪は金色、身体は赤く色付けられていたといいます。
異人さん、ですね。

当時、天平の時代は、一大国際都市であった唐の長安と盛んに交流を深め、この奈良の地も、国際都市の様相を呈していました。そのせいで、最新の仏教が入ってき、正倉院に収められているような世界中の宝物が、この地にもたらされました。

なら、異人さんの子供がいても、不思議ではないですね。
赤い肌を持つ金髪の紅毛人が、この地で舞い、歌を歌っていた風景は、日常としてあったのでしょう。
阿修羅という異人の神を表現するにあたり、そうした異人のお子らをモデルとし、さらには光明皇后の亡き息子を重ね合わせた…、そんなふうに、オレは思いますね。


ちなみに、阿修羅像だけが単体で安置されているのではなく、阿修羅が属している八部衆(仏教に帰依した、ヒンドゥの神が8人ですな)のすべてが、ここではコンプリートされて安置されています。

天を司る、頭に象の冠をかぶった五部浄像。
雨を司る、頭上にコブラを立てた沙羯羅像。
水を守り、死者の魂を吸う悪鬼でもある鳩槃荼像は、髪が燃えています。
笙を吹き、音楽で供養する乾闥婆像は、頭上に獅子の冠をかぶっています。
毒や煩悩、害を与える一切の悪を食いつくす迦楼羅像は、鳥頭人身です。
毘沙門天の家来であり音楽を司る緊那羅像は、一角の鬼の姿をしています。
ニシキヘビを神格化した畢婆迦羅像は、音楽を司り、横笛を吹いています。

阿修羅像に加えて、これらの像が勢揃い☆
8体すべてが並ぶさまは、壮観ですぜ!

さらに、見事な千手観音さんもいらっしゃり…、まじ、ごちそうのてんこ盛りで、さす国宝館と謳うだけあって、ヤバいです☆



いや、いいもん見たな。
このあと、再び燈花会を楽しみ、帰阪後の深夜、扇町公園でペルセウス流星群を見たのでした。流れ星、3個発見。
終戦の日。鎮魂も込めて。


アイム.ロックンロール!
興福寺の阿修羅像のBGMって、これがベストだと思うな☆


『sunday morning』
The Velvet Underground

2007年8月15日水曜日

奈良旅6 画でもあり詩でもある風景編

さてと、いよいよ1泊2日の奈良旅も、今回の日記にて完結編へ(笑)
クライマックス、東大寺二月堂です。

高畑方面の散策終えたあと、一行は、再び、東大寺を目指したのでした。
午前中に東大寺をうろうろしていたのだから、またか?ってかんじですが、夕方に向かった先は、二月堂です。
ここは、山の中腹にあって、見晴らしがいいんですよね。
で、西を向いているので、陽が沈んでいく奈良市内を一望出来るんです。二月堂に行くなら、夕暮れどき!とのgoutさんの教えにしたがって、ここは夕方までとっておいたのでした。
ただし、さすがにふらふらだったので(そりゃそーだ。1日中、歩いてるもん)、タクシーで(笑)

このあたり、若草山の山麓でして、坂に沿って、二月堂、三月堂、手向山八幡宮の3つの建物が、並んでます。

手向山八幡宮は東大寺を守護している神社ですが、メインは二月堂なので、ちょろっとだけ見て、終わり(笑)
三月堂は、別名、法華堂。東大寺も火事で何度か焼失し、再建されている建物がほとんどですが、この三月堂は、数少ない、奈良時代建築のひとつです。東大寺の前身寺院からある古い建物ですが、メインは二月堂なので、ちょろっとだけ見て、終わり(笑)



さて、二月堂。
お水取りで有名なところで、深夜でも入れる、珍しいというか太っ腹なお寺さんです。
ちょうど、夕暮れどきの7時頃に着いたのですが、西陽が本堂を照らしていて、キレイでしたね。
山の斜面に建っていて、京都の清水寺によく似ています。これで迫り出しの能舞台があれば、まるで清水寺です。そういう、壮大で威厳のあるお寺さん。




最後の最後に、なかなかな階段がありましてね。もう、さすがに疲れきっていたので、這々の体で登ってました(笑) でも、西陽のおかげで長く延びた影が階段に映し出されて、なんだか夏休み感が倍増します(笑)


で、階段を登りきって、本堂から西にひらいた風景に目を転じると…、
絶景ですよ☆
境内の森があり、瓦を葺いた寺院の屋根がいくつも見え、町並みが点のようにそこにあり、はるか西の空に、まさに今、陽が落ちんとして、空を、町を、真っ赤に染めてます。

疲れがね、吹っ飛びましたね。
今日一日歩きまわったのは、この景色のためにあったのか、と。




ずーっとね、この景色を眺めてましたよ。
陽が落ちるまで、空が夕焼けに染まって、やがて瑠璃色になって、瑠璃色から灰色がかった群青色に、時間のグラデーションを楽しみながら、ずーっと、ぼんやりと、この景色を眺めてました。
ゆっくりとゆっくりと時間が流れて、1分が60秒だなんて誰が決めたのか知らないけれども、そんなもん関係なくて、ゆっくりとゆっくりと、悠久の時間が、流れていきました。

画でもあり、詩でもありました。

画は、いつまでもそこに変わることなく、あります。
変わるな、という願いと祈りを込めて、画は、そこに活写されます。
一方で、詩は、定型を持ちません。
時とともに、場所を隔てるにつれて、詩は、美しくも醜くもなり、定型を持ち得ません。

この風景は、刻々と顔貌を変える詩のようでもあり、毎日、変わることなく繰り返される、一幅の画のようでもありました。

これが、奈良なのだな。
ここが、奈良そのものなのだな、と、すとんと納得しました。
またいつか、この風景を見にこよう。
そのためだけにここに来てもいいな、そんなふうに思いました。

見よ今日も
見よ今日も
かの蒼空に
飛行機の高く飛べるかな

啄木の「かの蒼空」の一節が、ふと、心にすうっとよぎったのでした。

以上、今回の奈良旅、全行程の終了です。
奈良倶楽部のgoutさん、お世話になりました☆


円は、閉じました。





写真は、左から
麓から見上げた東大寺二月堂。
東大寺二月堂に向かう階段。西陽を受けて延びた影を写す相方さん。
東大寺二月堂から眺める黄昏どきの奈良市内。

アルバムは例によって、こちら。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21654352&comm_id=1595229&page=all

(全行程)
燈花会(浮雲園地→春日野園地→浅芽ヶ原→浮見堂→猿沢池)→五劫院→正倉院→東大寺講堂跡→戒壇院→奈良県知事公邸→氷室神社→春日大社→ささやきの小径→志賀直哉旧居→新薬師寺→白毫寺→入江泰吉記念奈良市写真美術館→頭塔→手向山八幡宮→三月堂→二月堂→燈花会(県庁前)

あ、明日、番外編をひとつだけ書きます(←まだ終わらん! 笑。)



『A Walk On The Wild Side』
Lou Reed

2007年8月14日火曜日

奈良旅5 高畑界隈編

さて、たかだか1泊2日の奈良旅日記、まだまだ続きます(笑)

春日大社からささやきの小径を抜けて、向かった先は、高畑界隈。
ここは閑静な住宅街でもあるのですが、志賀直哉の旧居や入江泰吉記念写真館があったりして、ちょっと文化的な香りのするところです。もちろん、神社仏閣もあります。

で、どっからまわろうかと思案していたら、この界隈を総なめに出来る共通入場券が発売されているのを発見してですね。4ヶ所なんですが、すべてまわると、数百円お得!というものだったので、購入してしまいました。この時点で、4ヶ所全部まわる気満々です(笑) すでに、かなりの数をまわってるんですけどね。。。

で、最初に行ったのが、志賀直哉旧居


「城の崎にて」や「暗夜行路」を著した明治の白樺派を代表する小説家ですが、この人の小説には、言葉の選びかたに無駄がないです。物語作家としては一流だとはオレは思わないですけれども(時代の変化に応じて、軍国主義者から平和主義者へ、無反省に節操なく転向した人ですから)、夏目漱石が発明した近代日本語を完成させた筆力というか、とにかく、言葉の選びかたがジャストで、厳しい審美眼を持っていたところがね、オレは好きです。そういう人が自ら設計して建てた家というのはどんなだろうか、と、ちょっとわくわくしながら訪れました。





基本は数寄屋造りですが、洋風あり唐風ありの、和洋折衷というよりも、いろんなところのいいとこ取りというかんじで、和魂洋才、文明開化の明治の気風がよく表れた家ですね。
ダイニングがあり、書斎があり、茶室があり、子供部屋や婦人の部屋まであり、さらには、サンルームにカフェまであります。
最大の特徴は、カフェと庭ですな。
ここで、当時の文豪が集まり、文学論や芸術論を語り合った。つまり、サロンです。どうやら、サロンとしての機能を、この家は果たしていたようです。
そういえば、志賀直哉は、京都から奈良、鎌倉と移り住んでいますが、どこもサロン文化の発達したところばかりです。
ただ、彼は、癇癪持ちで感情の起伏が激しく、普通の付き合いをするのには、少々面倒なタイプの人でもあっただろうことは、小説からも読み取ることが出来ます。
一介の小説家(この頃、小説家は著作物だけでは、まだ生活が成り立たない職業です)が、婦人の部屋をつくり、子供を不相応に溺愛しまくった痕跡を見ると、やはり、常人の神経の持ち主ではなかったのだな、と、再確認させられもし、そういう人がサロンを開くのだから、淋しさが根底にあったのかな、などと思ってしまいました。
これは、志賀直哉当人がそうしたのか、現在の管理者がそうしたのかは定かではないのだけれども、志賀直哉が「暗夜行路」を執筆したとされる書斎の本棚には、「志賀直哉全集」が飾られていました。自分が執筆する書斎に、自作を飾っておくという神経は、モノヅクリをする人の神経からすると、ちょっと異常です。どんなに出来がいいものであったとしても、自作にはなにかしらの不満があるもので、そこから出来るだけ目を伏せておきたいのが、モノヅクリをする人の普通の神経だし、そこから逃げずに対峙するなら、目の前の机に置いておきます。背後の書斎に飾っておくというのは、ナルシシズムの発露ですね。
果たして当人の趣味なのか管理人の配慮なのか、いつか、聞いてみたいものですわ。


さて、次に向かったのが、新薬師寺。このあたりで遅めのお昼ご飯を食べたのですが、新薬師寺の前だったか後だったか、もはや覚えてませぬ~(笑)
なので、お昼ご飯は割愛。。。
とっとと新薬師寺に行きます!

新薬師寺は、new薬師寺と解釈すると、ちょっと意味合いが違ってきます。
薬師寺なので、本尊は薬師如来さんなのですが、薬師如来さんといえば、左手に薬壷を持った、健康にきく仏さんです。
で、その仏さんの効き目が、「霊験あらたか」なので、新薬師寺。
えーっと、「あらたか」を漢字で書きますと、「新か」となります。
というか、「新しい」を「あたら・しい」と読むのは戦後になってからのことで、もともとは「あらた・しい」と読みます。意味は、普通に「new」でいいのですが、この「new」には、古いよりも新しいもののほうがいい!という意味合いが込められています。だから、「霊験あらたか」には、「これまで以上に効き目がある」という意味になります。そういう意味での、新薬師寺。今までの薬師さん以上に効き目があるお寺としての、新薬師寺、となります。



庭は京都、仏像の奈良のフレーズに違わず、新薬師寺さんにも、見応えのある仏像が目白押しです。
まず、本尊の薬師如来さん。台座の上に丈六以上のサイズの仏さんなのですが、なんと、一木造り! 仏像も大半は、手や足の各パーツを個別につくって、プラモデルみたいに組み立てていく寄せ木造りなのですが、ここの薬師さんは、一本の丸太を彫ってつくられてます。これだけでも、国宝になった価値がありますな!
切れ長の目に威厳があって、堂々たる体躯をしてます。どっしりとした、威厳のある、いい薬師さんです。

そして、その薬師さんを取り囲むようにして守護しているのが、十二神将。
もうね、ゴレンジャーの世界ですから! ウルトラ兄弟の世界ですから!
12人の大将が、それぞれ武器を持って、薬師さんを取り囲んでいます。これは、戦隊モノが好きな方には、たまらんですよ(笑)
で、12人いてるから、干支に対応しているのはなんとなくわかるんですが、それがね、干支の順番に並んでないんですわ。
バサラ大将(犬)→アニラ大将(羊)→ハイラ大将(辰)→ビギャラ大将(鼠)→コマラ大将(兎)→クビラ大将(亥)→ショウトラ大将(丑)→シンタラ大将(寅)→サンテラ大将(午)→メイキラ大将(酉)→アンテラ大将(申)→インダラ大将(巳)
って並びです。
不思議じゃないですか。
で、近くにいたお坊さんに聞いてみたら、十二神将が出来た当時、干支は日本に入ってきておらず、べつの考えで、配置されたそうです。その後、干支が入ってきて、それぞれの干支に符合する大将をあててみたら、配列がバラバラになってしまった、と。
ちなみに、こうしたことは全国で起こっていて、しかも、干支に符合する十二神将は、お寺さんによって、まちまちなんだとか(笑)
かなり、いい加減な話です(笑)
ちなみに、干支の十二支も、動物が現在の12種類に統一されたのは平安以降で、それまでは象がいたり猫がいたり(今でもベトナムあたりの干支では、猫が入っていたりします)したはずなのですが、そのあたりの兼ね合いはどうなっていたのか、と、思いましたよ。でも、ここのお坊さんは、そこまで詳しくなさそうだったので、それ以上は追求しませんでしたが。。

ちなみに、相方さんの干支である酉に呼応する「迷企羅(メイキラ)大将」が一番ファンキーでかっこよかったです☆

やっぱ、仏像の宝庫ですね。
で、まだまだお宝仏像がここにはありまして、ずいぶんまえの日記にも書いたのですが、おたま地蔵というのが、ここにはいらっしゃるのですよ。

これね、もともとは、とある地蔵菩薩さんがいらっしゃいまして、傷みが激しくなってきたから、修復することになったんですね。
んで、修復を担当したのが、当時、東京芸術大学に在籍していた彫刻家の藪内左斗司さん。

まず、X線で撮影して、この仏像がどのような技法で造られているのかを、調べます。
木造であっても、1本の木をくり抜いて一木造りもあれば、パーツごとにつくってそれを嵌め込む寄せ木造りもありますから。
撮影してみると、この仏像は寄せ木造りで造られていたことがわかり、どのようにパーツ分けされていたのかもわかったのですが、写真を見てみると、通常は内部が空洞になっているはずなのに、どうやら、なにかが埋まっているようなのですよ。しかも、それぞれのパーツのかたちも、従来の知られているかたちとは、少し違う…。

手なら手のパーツというよりは、タイル状につくられた木片を、なかにあるものに貼りつけるようにして、つくられているのですね。
で、おそるおそる木片をはがしていくとですな、なんと! なかから一体の裸形像が現れたのでした!
仏像のなかに、手のひらサイズの小さな仏像を体内仏として納めてある例はいくらでもあるのですが、外の仏像とほぼおなじサイズの仏像がその下に納められているなんてのは、前代未聞です。

これが、1984年のことで、当時、世紀の発見と呼ばれたらしいのですが、1984年といえば、オレが18歳のときのこと。大学をクビになって、渋谷のストリップ劇場で使いっ走りをしていたころのことですから、んなことに目を向けるなんて高尚な人間ではなかったのですよ…。

ですから、構造を説明すると、裸の仏像のうえに、それこそ衣を着せるように木片がペタペタと貼られていて、地蔵菩薩の姿が形成されている、と。
すごいです! 京都でいろんな仏像を見てますけど、そんなの聞いたことも見たこともありません。

ちなみに、裸の仏像というのは、結構あるんです。鎌倉時代にたくさんつくられてます。
新薬師寺さんからほど近い伝香寺というお寺さんにも裸の仏像がありまして、年に1度、7月の地蔵会のときに、本物の衣を着せてあげる行事があり、厚い信仰と功徳への感謝を表す行事として、今も続いています。
お地蔵さんというのは、本物の衣を着せると、ビックリするくらいに人間らしくなりますけどね。

だから、新薬師寺さんの裸形像も鎌倉時代につくられたものなのですが、この仏さんは、本物の衣ではなく、木片を着せられているわけで…、いや、ちょっとすごいな。ガンダムのモビル・スーツみたいなもんですから。

解体し、いろいろと調べてみると、この裸形像も、鎌倉時代のものだということがわかりました。
なかから出てきたのは、体内仏が多数、当時の通貨、願文など。
そして、裸形像を着装像にするために、裸形像にさまざまな改良が加えられていることも、わかりました。
たとえば、裸形像の手をとって、着装像に新たにべつのかたちの手を付け加えたり…。
でも、とっちゃった手や、削った木屑、木片など、ありとあらゆるものが、ひとつ残さず、このなかに納められていたそうです。

本来なら捨てられるようなものまで、納められていた、と。
つまるところ、裸形像から着装像につくりかえるとき、裸形像に対する思い入れが、強くあったってことですよね。

願文を読むと、
大僧正実尊という偉いお坊さんがいて、その弟子に、尊遍という人がいたということがわかりました。
どちらも、奈良の春日絵巻に登場するお坊さんで、実尊は、藤原氏の出身であり、晩年、藤原氏の寺である興福寺の住職を務めた偉いお坊さんです。

春日絵巻では、大法要の前日、ぜんそくに苦しんでいて法要でちゃんとお経が読めるかどうか心配している実尊のもとに鹿が現れ、お告げをし、ぜんそくが治った、という内容の絵が描かれています。
また、そんな実尊を案じる尊遍のもとにも鹿が現れる絵が描かれており、子弟でおなじ夢を見るほど2人は強い絆で結ばれていたことが、表現されています。

1236年、実尊が亡くなります。
そのとき、師の生前のありのままの姿を残したいとして、尊遍は、実尊像をつくるのですね。これが、発見された裸形像です。
願文から、そこまでのことがわかりました。

問題は、ではなぜ、その後、この実尊像は木片で衣を着せられ、地蔵菩薩につくり変えられたのか。

ここから先は、修復を行った藪内さんの推測となるのですが…、
尊遍は毎日、師である実尊を象った裸形像を熱心に拝むものの、やがて年をとり、老い先短くなってきた。
そのとき、自分が亡きあとも、実尊像が裸のままで残っていくことに、非常な抵抗感があったのではないか、と。
なんせ、裸形像ですから。オチ○チ○まで、ちゃんとついてますから。
だからこそ、お地蔵さんのかたちにつくり変えたのではないか、と。

そうやって、封印された裸形像が、800年の時を経て、日の光を当てられた、と。
そして、この裸形像は、新薬師寺の住職によって、おたま地蔵と名付けられました。
だから今、新薬師寺には、従来の地蔵菩薩とおたま地蔵の2体が安置されているそうです。

ということをね、オレはテレビで見たことがあって、これをぜひ見たくて、住職に言えば見せてくれるって話だったんですが、この日は住職がいらっしゃらないので、お見せ出来ない、と。
住職、いなくてもいいじゃん!って食い下がったら、いや、住職の解説がありますから、と。
でも、オレ、このお地蔵さんについては、こんだけのことを知ってるし、もはや住職に付け加えてもらうことはない! 足りないのは、現物拝見だけ!
…でも、頑に見せてくれませんでしたね。。。。

だいたい、このお寺さんは…、と、こっから悪口が出てくるのですが(笑)

ここの住職さん、ちょっと変わってまして、本堂に、ステンドグラスをはめてしまったんですよ~。
ったく、なにを考えてるんだか。。。
これ、サイズのわりにはそれほど違和感がなく、よく出来たステンドグラスでもあるのですが、やっぱ、本堂にステンドグラスをはめるというのは、いくらなんでも伝統と宗教心から外れ過ぎでしょ。
ほとんどのお寺は仏像を撮影させてくれませんが、それは、仏像が美術品ではなくて、宗教の対象だからです。オレたちは美術品として仏像鑑賞を楽しみますが、それでも仏像は、あくまで宗教の対象です。
本堂だってそう。宗教の対象だからこそ、外してはいけないところというものがあります。キレイだし似合っているから、という理由だけで、ステンドグラスをはめるというのは、ちょっとおかしいですね。


ふぅ~、高畑編だけで4ヶ所なのですが、まだ2ヶ所しか書いてません。
あと2ヶ所☆

次に行ったのは、白毫寺
ここは、goutさんに紹介されたところではなく、高畑の共通入場券についていたので、行ってみました。高畑エリアといっても、ここだけは少し離れていて、かなり歩くんですけどね。
でも、ここ、当たりでした☆
山寺ですね。
道中、畑と住宅が入り組んだのどかな風景のなかを、緩やかな勾配のついた道を歩いていくのですが、道の辻という辻にお地蔵さんがいて…。
路傍にひっそりとお地蔵さんがいて、ちゃんとお供えものが供えられてあって、世話も手入れもされている風景というのは、見ていて気持ちがいいですね。
宗教心がどうということではなくて、人の心の、優しくも素敵な部分が、表れているような気がします。こうした風景を見ていると、心に、気持ちのいい風がひと刷け吹いた気分になります。どうしようもなくね、ニコニコっとした表情を浮かべてしまいますね。

そうした風景のなかに溶け込むようにして歩き、道は徐々に勾配を高くしていきます。
ここからの道がね、結構、きつい(笑)
山寺はどこもそうですが、最後の道って、勾配がきついうえに、いつ果てるとも知れない道が多いのですよ。で、ここもそう…。
もうね、えんやこらさっさ!って気分でのぼってましたよ。






でも、しんどい思いをして登っただけのことはありましたね。
ここの境内から、奈良市内が一望出来ます☆
この風景を見ただけで疲れも吹っ飛ぶ…、ってことはないですが(笑) それでも、この景色を見るためにここまで来る価値は、ありますな。
山の木々に囲まれて、その真ん中に奈良市内の風景があって、そこから下に目を転じれば、ついさっき登ってきた参道が糸を引くように、下に延びています。
なんというか、俳味があるんですね。
意味も企てもないですが、そこにあるだけで、言葉を紡いでしまいそうな、そんな魅力のある風景です。


境内には、立派な椿があります。今の時期、椿はこの暑さをしのぐだけですが、冬になれば血の滲むような鮮やかな花を咲かせるのでしょうな。椿好きのオレには、想像しただけでたまらん光景です。
京都の山寺と非常に似ているのですが、違うのは、やはり仏像です。








やっぱ、さすがですね。もうね、めちゃくちゃ見事な閻魔大王がいらっしゃいましたよ。もともと閻魔堂があったみたいですな、このお寺さんには。
憤怒の表情がね、そこらへんの四天王よりも全然おっかない(笑)
鎌倉時代の作らしく、リアリズムが追求された閻魔さんで、顔の表情をかたちづくっている筋肉の造形が、素晴らしいです。

このお寺さんは、冬にまた来てもいいですね。これからも何度も訪れそうなお寺さんです。

さて、すでに夕方に差し掛かる時間になっていたのですが、この時期、やっぱ、夕立ですよ。
境内から奈良市内を一望していると、暗雲がみるみるうちに迫ってきてですな、これはヤバい!と。
急いで山を駆け下りて、次にいく、入江泰吉記念奈良市写真美術館へ行って、雨をしのごう!と。

こっから先、入江泰吉記念奈良市写真美術館までは、暗雲と鬼ごっこみたいになってましたな。
で、なんとか雨に降られず、暗雲にも追いつかれず、入江泰吉記念奈良市写真美術館に到着です。





受付で共通券を出したとき、ここが最後だったので、全部まわられたんですか?すごいですね~、と、受付の人に言われてしまいました。
いやいや、全部まわらんと、割引のある共通券を買った意味がないだろうが(笑)

で、写真館は、こんなところです。


入江泰吉という人は、奈良を愛し、奈良の風景を写真に収め続けた偉大な写真家です。
日本は単一民族じゃないから、大和路にこそ日本の原風景がある、という言いかたは好きじゃないし、むしろ嫌いですが、彼の写真を見ていると、すでに失われてしまった、あるいは失いつつある風景を、じっくりと味わうことが出来ます。
そこに、清々しい気持ちや平和な気持ちが沸き上がってくるとしたら、それは、彼が、奈良を愛していたからでしょう。
彼の写真を見ていると、奈良を愛した者だけが見ることの出来る風景、というものが、たしかに存在することがわかります。
そうした彼の写真が約8万点、所蔵されているのが、この美術館。常設だけでも、かなりの数の彼の写真を見ることが出来ます。

常設で展示されている写真は、奈良の風景に溶け込んだ路傍のお地蔵さんを写した写真が多くてですね、ほっこりした気分になりましたですよ。
べつの作家による企画展は特に興味がないので、願わくば、もっともっと入江さんの写真の展示を!

これで、高畑界隈の散策終了。
どんだけ歩いたことか(笑)
相方さんは、オレのタオルをぶんどって、首からぶら下げたままついぞ離しませんでしたな(笑)

このあと、奈良の七不思議と言われている奇怪なピラミッドの頭塔を、通りすがりにチラッと眺めて、いよいよメインイベント、東大寺二月堂へ。(←まだ続く! 笑)

2007年8月13日月曜日

奈良旅4 春日原生林編

さて、東大寺界隈を散策したところで、休憩。
途中、立派な和風建築の住宅があるなあ、と思って近づいてみたら、奈良県知事公邸でした(笑)
もちろん、非公開(笑)
その他、依水園、吉城園と名庭と呼ばれる庭もあるのですが、神社でも仏閣でもないので、今回はパス。ほかにね、まわりたいところが目白押しなんですよ、今回は。

こんな街並み。


ただ、どこに向かうわけでもなく、ぶらぶらとこのあたりを歩いているだけでも、風情があります。
ほんとにね、どこからどこまでが寺域かわからなくて…。


そうそう、さすがにお茶休憩したくなって、奈良公園近くのカフェに入ったのでした。
そしたら、偶然にも、そのお店をgoutさんがブログで紹介されてました。
ここにある、「下々味亭」ってところです。


もうね、めちゃくちゃいい天気で、気温30度超え必至なんですが、アスファルトが少ないせいもあって、ヒートアイランド現象が起こらないんでしょうな、大阪の暑さよりも全然ましです。
奈良も盆地なので、本当ならそれなりに暑いはずなんでしょうが、やっぱ、土と緑がたくさんあると、気温が全然違ってきますね。

さて、次に向かった先は、氷室神社経由で春日大社。

まずは氷室神社。
奈良神社や県庁のすぐ近くにある町中の神社ですが、なんてことない神社です(笑)
境内には見事な枝垂れ桜があるのですが、時期的に、今はまったく関係なし(笑)
ただ、祝詞をあげる機械がありましてですね、そこに100円を入れると、奇跡のスピーカー、YOSHII9による超リアルな祝詞が再現されるんだとか。
オレは、どっちかというと、この、YOSHII9に釘付けでしたよ☆
前々からほしいと思っていたスピーカーなんです、これ。円柱形のポールみたいなスタイリッシュなスピーカーで、ほしいなあと思って調べたら、1セットん十万! 泣く泣く断念したことがありました。こんなもん神社には不要! よっぽど持って帰ってやろうかと思いましたが、ま、そこは大人なんで(笑)

境内には、やっぱり鹿が彷徨ってましたな。
春日大社ならいざ知らず、町中の神社の境内に鹿が彷徨ってるって、やっぱ、不思議な光景です。
ちなみに、灯籠にも鹿のデザインがあしらってあったりして、このあたり、鹿だらけです(笑)





で、氷室神社をあとにして、次に向かった先は、春日大社。
東大寺と並ぶ、奈良の2大観光スポットのひとつですな。
これがね、広い! 本殿まで、めちゃくちゃ遠いです。。
これより神苑と書かれた碑から、両サイドが石灯籠に埋め尽くされた参道が、延々と続きます。もうね、どんだけ~!って、言いたくなるくらいに、延々と(笑)
でもこの道、原生林を縫うように走っていて、木々に囲まれ、とっても気持ちがいいです。ましてや神苑なので、清浄な空気が満ちています。涼しげで、いいですよ。
苔むした石灯籠が延々と並ぶさまも、美しいですね。
この近所に住んでいたら、毎日散歩するかも、って道です。







途中、お土産物屋さんで鹿を発見☆


春日大社のサイト

10分か20分か30分か歩いたころ、緑の木々の合間から、鮮やかな朱に塗られた中門が見えてきます。
この神社、全編、朱色ですわ。ここまで朱に塗られた神社って、あんまり見ませんね。さすがは日本有数の神社ってかんじがします。




第一、摂社5社の、 本社内院に7社、中院に8社、外院に17社。 さらに、若宮内院(垣内)に2社、若宮外院に7社…、めちゃくちゃな数の神殿があって、広すぎです(笑)

あとね、この神社を見ていて思ったんですが、朱色がベースで、アクセントになるところは、金なんですね。
秀吉の黄金の茶室を思い出しましたよ。
秀吉の黄金の茶室は、そのレプリカが伏見にあるのですが、全編が黄金で出来ていて、柱だけは漆が塗られた朱色なのですね。
だから、春日大社の朱と金の比率は真逆なんですが、このコーディネイトは秀吉オリジナルでもなんでもなくて、日本古来からある感覚なんですね。
ぱっと見ると、ものすごく抽象的で、大胆で、ちょっと並みではない感覚なのですが、それでいてバランスも調和もとれているんですね。
オレは仕事柄毎日のように色指定をしていますが、朱に金という組み合わせは、よほどのことがないと怖くて使えません。
それをね、こうも鮮やかに使い、それはやっぱり日本人の古くからの感覚にあるのだということを再発見して、ちょっとした畏怖を抱きましたね。
今の時代、いろいろなものがありすぎて、溢れすぎていて、こうした大胆なコーディネイトが出来なくなっているような気がします。

そうそう、春日大社で面白いものを見つけました。
このあたり、原生林だから、クモの巣がいたるところにあるんですが、ここのクモは、一風変わってます。
巣を張るときにね、ステッチをつくるんですよ。それがいろんな幾何学的な模様になっていて、とってもおもしろい!
こんなクモの巣、ここでしか見たことないですよ。



このあと、無料の休憩所(あるんです! 畳敷きの素敵な部屋が)で扇風機にあたって、ようやく、高畑方面へ向かいます。




春日大社と高畑方面を繋ぐ、ささやきの小径という、原生林を縫うようにしては知っている自然歩道を歩きます。
ここもgoutさんに教えてもらった自然歩道でして、涼しげないい道です。



奈良はね、繰り返しますけど、どこそこのスポットがいいというよりも、スポットからスポットへ移動する道がね、とってもいいんですよ。これこそが、奈良の最大の魅力です。
だから、奈良観光というのは、必然的に、歩くことに重きを置いたほうがいいですね。これを車で移動したりなんかしていたら、魅力が半減しますわ。

ささやきの小径(この作為的なネーミングだけは、どうにかしたほうがいいと思います)は、原生林を縫うようにして走る、歩いて約10分ほどの自然歩道です。
ここがね、涼しくて、マイナスイオンがいっぱい出ていて、気持ちのいい道なのですよ。
相方さんは、マイナスイオンをいっぱい浴びたあとに、ここで太極拳をしてましたね。なんでだか知らないけれども(笑)



これで、やーっと旅程の半分くらいまで来たかも(笑)

このあと、高畑方面の日記が続きます。まだ終わりません(笑)